2008-07-21

座禅を始めてみて

 私は、トランス・パーソナル思想に関心がありながらも、恥ずかしいことに座禅を実際に体験したことが一度もなかった。でも、先日来、機会が与えられて参禅することができた。以後、時々、自分で早朝に座禅をしている。座禅は生半可な我流では危険であるという話をどこかで読んだことがあった。だから、もう少し足が慣れたら、可能な限り参禅させていただこうと思う。

 梵我一如とか自他合一などの言葉を体験的な知として感じ取ってみたい。そんな思いが座禅に興味を持っている理由の一つでもある。座禅によってそれを体験できるところまで行ければいいのだが、それはとんでもなく遠い道のりなのかも知れない。

 今朝は座禅をしながら、あれやこれやと思いが巡ってくるものをどのようにも処理できずにいた。だから、開き直って考えてみた。どうして座禅を自分はしているのだろうか、これはいったいどういう意味があるのだろうなどと。足も痛むし、心も定まらない、そんな中で何でこんなことをしているのかと考えてみた。(要するに煩悩のかたまりでしかないのだが)

 座禅にかぎらず何かの意味を問うということは、それを言語化することであり、言語化するということは概念化するということに他ならない。そして、概念化する瞬間に、人は客体との間に距離を措定するのである。

 座禅をしている私にとってのあまりにも私極的な、あまりにも初心者的な思いつきなのかも知れないが、そのときの正直な気分と状態は、座禅はただただ足が痛いとか、結構辛いという身体的苦痛そのものであって、それを何やら格好をつけて語ってみても、嘘っぽくなる。だが、その身体性においてこそ意味のすべてであると思えた。

 ふと次のようにも思った。あたかも外部から問うかのように、座禅の意味を問うことは極めて無意味である。座禅は座禅なのだ。意味とは本来、そこにあるそのものが持ち合わせているに違いない。だから、意味は外部に問うてはならないし、内部的意識に問うてもならない。意味はそれ自体であり、それ自体は意味をそれ自体の外部に持たないのだ。

 座禅中に思ったのはそこまでであるが、考えてみると、意味を外側に問うということは、関係構造の中での関係の実態を述べることに他ならない。たとえば、貨幣がその典型である。関係構造が無くなれば、それはただの紙くずと化す。

 そうだとすれば、「私は誰であるのか」という問いも関係構造の中で問われるものである。私は公務員であるとか、サラリーマンとか、あるいは、私は***であるという言葉の羅列においても、それはただの関係構造に過ぎず、いくらでも答えうる事がらが羅列されてしまう。

 だがら、私は誰であるのかを関係構造において問うてみても仕方がない。自分が何者かはひたすら自分という存在そのものの意味であり、自分の外部でもなければ、関係に対する意味でもない。そして、神の存在について考える時、神との合一という考え方がどうしても浮上する。(もっとも、私は恐れ多くも「自分は神である」などというとんでも無い考え方は戒められるべきであると強く思っている。念のため!)

 ユングが研究を推し進めたグノーシス派の中のグノーシス的キリスト教には、神との合一を唱えた書が存在する(エレーヌ・ペイゲレス著「ナグ・ハマディ写本」参照)。彼らは4世紀にローマ帝国によってキリスト教が統制されるまでは宗派の一つとして存在したと思うが、それ以後は異端とされたのである。

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2008-07-01

キリスト教と前世

次のようなご質問をいただいたことがあります。
 
 「あなたは、キリスト教の最後の審判のような生まれ変わりはないという考え方と、前世療法を行い前世や生まれ変わりがあるということを、どうやって自分の中で折り合いをつけておられますか
 ご自分の信仰であるキリスト教の価値観と前世療法の体験が正反対のように見える場合、とても戸惑われることはありませんか。」

 この質問への回答は、そうそう短いコメントで返せるようなものではないのですが、私はとりあえず、次のような内容のお返事をしたことがあります。   

 たとえば、聖書の最後の審判は、「教義」ではありますが、私は教義とは人間が作り上げたものでしかないと考えています。たとえば、それは文化的なものであったり、時には時代の政治権力との関係の中で決定されて来た歴史を持つことさえあります。(この点については民衆宗教と貴族宗教の教義の違いを見るならば、仏教でもキリスト教でも教派間に顕著な違いがあります。)

 ですから、私は教義はあくまでも表象に過ぎないと考えています。たとえば神話が物語りの事実性を語っているのではないとしても、そこには思想があったり、人間の本質が語られたりします。以前、新約聖書神学でR・ブルトマンという人が、聖書の物語(特にイエスの生涯)を神話として読み、そこに存在する意味を現代的に読みとるべきだと主張したことがありました。これを非神話化と言いいます。私はそのような読み方で聖書を読んでいます。

 次に、輪廻思想がキリスト教にどうかかわるかですが、そもそも4世紀終わりにローマ帝国によってカトリック教会が成立して以後、キリスト教の教義が統一されたという経緯があります。それまでは、ギリシャ的多神教の影響を受けた様々な神秘主義的なキリスト教が存在しましたし、一般にこれらはグノーシス派として、その統一以降のカトリック教会からは十把一絡げに異端視されました。結果的に彼らのほとんどは撲滅されてしまいました。因みに、心理学者であったユングはこのようなギリシャ的神秘主義(グノーシス)の研究を推し進めた人でもあります。
 
 このような歴史的経緯を考えると、もともとのキリスト教とは何かという問題へ行くことになります。どこまでさかのぼれば本当のキリスト教ということになるのか、私には分かりません。私は少なくともローマ・カトリック教徒ではありませんので、原点としてのイエスにこだわる立場に立つとすれば、グノーシス主義をも目の当たりにした文化圏へ接近することになります。

 ところで、日本人の有名な神学者である野呂芳男氏が書いておられる論文はとても興味深い内容でした。キリスト教の神学者が輪廻思想を受け入れるべきだと述べておられることに驚かれるかも知れません。
  http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/1994minsyusyukyo.html
  
  

 「あなたは、宗教の考え方、自分の中に信念のようにあるもの、そして体験によって得られたものがバラバラにあるように思える場合どのようにバランスをとられましたか?あなたのお考えがとてもお聞きしたいです。」

 私は自分が感受しうるもの、感じ取れるものを信じるだけのことです。その場合、「信じる」という表現すらぴったりしないのかも知れません。なぜなら、「信じる」というのは未知のものへの憧憬を含んでいるからです。私は瞑想の世界で心のやすらぎを感じる場合、それは信じなくとも、そこに実体的にやすらぎを感じているのだと思います。私は感じ取れるものを感じるだけのことです。

 教義がどうあろうが、それを感じ取れるかどうかが先です。たとえ歴史的な教条であろうがなかろうが、自分がそれを感じるかどうか、そこが私にとって決定的な要です。たとえば、生きている限りは必ず実体的な感受として死が訪れるのも人間の宿命です。ですから、聖書に何が書いてあろうとも、書いてあることを感じ取れるのかどうか。ただ、それが私の宗教の根幹です。
 その意味では、前世療法を含めた催眠や瞑想などは私には捨てがたいものです。なぜなら、私もそれらを通して大いに感じ取れるものを得たからです。

 いま、そういえば、道元の「正法眼蔵」の次の行(第16 行持 下48)を思い起こしました。「静かに想っても見よ、一生はどれほどの時間でもないのである、仏祖たる言葉をたとえ二つでも三つでも言葉となしうるならば、仏祖たり身心を表現しうるのだ。」

 キリスト教であろうが仏教であろうが、私はそんなことにかまってはおれないのです。道元の「一生はどれほどの時間でもないのである」という言葉が身にしみます。私は感じうるものを感受する。それが精一杯です。

 また、前世療法を私は前世イメージ療法と呼んでおりますが、それについても、道元の次のお言葉を同時に思い起こす次第です。「今の今こそが全てである。今を云い尽くす言語は来世の存在をも云い尽くすのである。今生の存在は来世の存在をも併せるのであるから、今生に在ってほとけとなり仏祖となるなら、来世の仏をも超え来世の仏祖をも超えるのである。(「正法眼蔵」第16 行持 下48)」(河出文庫 石井恭二 訳)

 
 
 

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2008-06-30

逆説志向

 スポーツを愛好する人から、今まで出来ていたはずのあるフォームが急に出来なくなったという相談を受けたことがある。何のスポーツかは具体的に書くことは(プライバシー保護のため)差し控えるが、これに類する悩みは結構多い。

 いままで言えていたはずの会社の名前が急に出なくなって、職場でパニックになったとか、覚えていたはずのパスワードを急に忘れてしまい、どうしてもファイルの復元が出来なくなったとか、何となく似たような症状は結構あると思う。

 人間というのは不思議なものである。これこれをしなくてはならないと力んでしまうと、結構、それが続かなかったり、出来なかったりする。でも、反対に出来なくてもいいんだと開き直ると、それが出来てしまったりする。また、覚えようとして必死で暗記しようとすればするほど、頭に入らなかったりするが、何かの拍子にふと気に留めた事はいつまでも覚えていたりする。

 有名な「夜と霧」の著者でもあるV・E・フランクルによる「意味による癒し ロゴセラピー入門」を読んでいると、興味深い話が出てきたので、そのまま引用させていただこう。

 「この事例は総合病院の咽喉科の同僚から私に委ねられました。その人は、同僚のそれまでの長年の治療の中でもひどい吃音だったのです。この吃音の人が記憶する限りでは、彼のそれまでの人生において言語障害から自由であったことはただの一瞬もなかったのですが、しかしただ一度だけその例外があったのです。それは彼が12歳の時のことでした。彼は市電に乗ったのですが、乗車賃をごまかしたために、車掌につかまりました。その時、彼は、唯一の逃げ道は同情を引くことだと考え、貧しい吃音の少年であるかのようにふるまおうとしたのです。しかし、彼がどもろうとしたその時、彼はどもることができませんでした。治療目的のためでなく。無意識的に彼は逆説志向を実践していたのです。」

 逆説志向という言葉が出ているが、これは何かを出来ないで困っているならば、逆に、それが出来ないという方へ徹底的に自分から出来ないのが当然のごとく振る舞ってみるという暗示を自分にしてみる。そうすると、逆に出来ないはずのことが出来てみたりするという、一見不思議な解決方法を言う。たとえば、「夜一睡もできません。もう、一週間も眠っていないのです。」というような不眠症の人がいたとすれば、では、逆にもう眠らないと心に誓うのである。絶対に眠ってはならないと肝に命じてすごしてみる。すると、やがては眠ってしまうものである。こういったものが逆説志向というものである。

 (他にも事例がこの本には出て来るので、また、紹介させていただきたいと思います。)

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2008-06-28

箱庭療法

 長い間、ブログに書かないままでしたので、どうなっているのかというメール、お電話、手紙まで頂いたりしていました。とても多忙でしたので、しばらく書かないでいるうちに、すっかり書かないのが当たり前な状態になっていました。

 まるで、学校を休み始めて、急に行くのが気恥ずかしいような不登校の生徒のような気分だったのかも知れません。でも、私はこの間、ロールシャッハ・テストを学びましたし、箱庭療法もヒプノワーク四国で行えるように設備も整えました。

 箱庭療法は私も以前受けたことがありましたが、いざやってみると、その人の心の状態を把握するのにとても助かります。箱庭は分析のためというよりは、楽しく庭作りをすること自体がセラピーとしてのいやしの要素を兼ね備えているのですが、でも、更に深い理解を得るためにとても有り難い方法です。

 難があるとすれば、ただ一つ。それはヒプノワーク四国のビルの一室で、沢山の人形や木、家、動物、そして、箱庭が場所を占拠してしまう点です。また、当方は箱庭療法を中心に行っているわけでなく、催眠によるイメージ療法を中心にセラピーを行っていますので、色とりどりの楽しい人形は少し落ち着きのない印象がしてしまいます。部屋に置いてあるだけで催眠イメージにまで影響が出てしまいそうです。そんなわけで、フタの付いたキャビネットへ人形などの箱庭の材料はすべて入れています。箱庭療法をお受け頂くクライアントさんには少し取りづらいかも知れませんが、致し方なしという感じです。

 催眠による療法を中心に行ってはいますが、これからも様々な方法を積極的に取り入れて行きたいと思います。

 

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2008-03-21

私のおすすめ本 2

 かつて、東大の助教授であった福来友吉博士は透視能力を持つという人たちに念写実験を行った。その一つが香川県丸亀市で行われた。被験者は丸亀の裁判所の裁判官の妻であった。

 妙な縁があるようで、私のヒプノワーク四国はその実験を行った場所から徒歩10分とかからない。私が行きつけのうどん屋さんがあるのだが、まさにその辺りである。いつもそこへの道を歩いてみては、福来博士もこの辺りを歩かれたのだろうと思う。何か不思議な気分となる。

 そのような実験の経緯や超心理学の先駆者であられた福来博士がたどった不幸な東大退官の事件などがとても詳細に語られているのがこの本である。「透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件」 寺沢 (単行本 - 2004/1/25)

 他にも類似の本は書かれているので、私は不思議な縁も感じながらそれらをほぼ蒐集、読了している。とりわけ、特に信頼できるのが本書である。とかく面白半分で取りざたされる丸亀をはじめとする事件は、いつも曲解されてきた。それは映画「リング」においても言えることである。いわゆる福来博士にかかわる丸亀事件をテーマとしているようでいながらも、そこに登場する学者が殺人を犯したかのように話が展開する。福来博士にとってはやるせない話であろう。

 丸亀での事件というのは念写のフィルムが盗まれたという窃盗事件でしかないのだが、これは丸亀事件として、念写というもの自体が真実であるかどうかという問題も含んだ事件へと発展して行った。やがてマスコミはそれまで期待をもって報道し、丸亀まで取材に来ていたにもかかわらず、手のひらを返すように批判的な報道を行って行った。不幸にも、丸亀の女性やもう一人いた九州の女性も不幸な死をとげて行ったのである。 (続く・・)

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2008-03-20

私のおすすめ本 1

 私が読んだ中で、とても参考になった本をここに列記させていただきます。

これらの本は私がセラピーを行う上でも参考になりましたし、どれも私の中に残っている印象深いものばかりです。

 どうしてこれらの本をご紹介するのかは、時々、その解説を書いてみたいと思います。

 

 ところで、私は自分の毎日の日記のようなものをブログに書くという考えはありませんので、どうしても記事は毎日更新するというほどの元気はありません。また、最近はNGHの講習を福島県で行っていますので、これが一通り終わるまでは、ゆっくり時間をブログに割くことは難しい状態です。でも、可能な限り更新して行きたいですね。

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「イメージ体験の心理学」 (講談社現代新書)   田嶌誠一,

 

「ナースだからできる5分間カウンセリング―看護現場で役立つ心理的ケアの理論と実際  小島 通代、 吉本 武史 (単行本(ソフトカバー) - 1999/3)  2,100   

「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」 ジェフリー・K. ザイグ、W.マイケル ムニオン、Jeffrey K. Zeig W.Michael Munion (単行本 - 2003/7)  版切れ

「胎児は見ている―最新医学が証した神秘の胎内生活」 (ノン・ブック) T. バーニー 小林  (単行本 - 1987/10) 

新品: 1,680  (税込) 

「胎児は語る―子宮は魂のゆりかご」 マイケル ゲイブリエル、M. ゲイブリエル、Michael Gabriel Marie Gabriel (単行本 - 1994/8) 

新品: 1,835  (税込) 

 

「リユニオンズ―死者との再会」 レイモンド ムーディ、ポール ペリー、Raymond Moody Paul Perry (単行本 - 1994/11) 

「透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件」 寺沢  (単行本 - 2004/1/25)新品: 1,890  (税込) 

「チベット死者の書―仏典に秘められた死と転生」 河邑 厚徳  由香里 (- - 1993/9) 

 

夜と霧 新版」 ヴィクトール・E・フランクル 池田 香代子 (単行本 - 2002/11/6) 新品: 1,575  (税込) 

こころがよくわかるスピリチュアル臨床心理学」 石川勇一 1,890

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2008-03-15

オーディオとイメージ療法 2

 催眠の中で毛布を人に見立てて抱くクライアントがそれが毛布だと分かっていないのかというとそうでもない。いくら催眠に入っていても、それが毛布であることはどことなく了解している。でも、そのようなダミーであることは承知していても、そこにあふれてくる感情はけっしてダミーではなく、いまそこで、そのクライアントが吐き出さねばならない感情が露呈してくる。
 だから、抱きしめる相手は毛布であろうが、ぬいぐるみであろうがかまわない。それを抱きしめるという行為を通して、クライアントが吐き出さねばならない感情がそこにあふれる。そして、カタルシス(心の浄化)に至るのである。だから、癒されるのである。ほとんどのクライアントはそのような場面では涙があふれている。
 
 音楽も同じではないのか。それが毛布であるのかどうかなど問題ではないように、それが「原音」であるとかないとかはどうでも良いのである。いまそこで聞き手がそれを楽しめるならば、それ以上に何もいらない。
 たとえば、i-podを聴く地下鉄の中の高校生が原音を聴けているかどうかなど、その本人にとっても、またオーディオ道とでも言うべき四角四面な何かが世の中にあるのだとしても、それにとっても「原音」などどうでも良いのだ。
 そこで、楽しめるかどうかは、「音」に「
原」がついているかどうかではない。まさに楽しめているというそのことが問題であり、目標であり、すべてなのだ。 だから、仮にかつてのLP時代のようなオーディオ志向が復活したとしても、少なくとも「原音追求」というような事柄はもう意味がない話だと思うのである。
 i-podはMP3を使用することで多くの曲を保存することが可能となっているが、その音質はオリジナルのCDレコードよりもかなりの情報が減衰させられている。だが、それでも楽しく手軽に聴けるというメリットを優先していると言える。

 催眠を含むイメージ療法の世界は、実際にクライアントが現実と合致するイメージを体験したかどうかとか、そのイメージが真実であるかどうかによって癒されるのではない。
 真実であろうが、架空であろうがかまわない。「イメージ」を体験したかどうかで癒されるのである。だから、それは「原音」でなくても良いし、ただ「イメージ」であれば良い。

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2008-03-14

オーディオとイメージ療法 1

 最近のオーディオはCDに始まり、i-podなども普及して、デジタル化によりとても便利になった。
 私もi-podを車に持ち込んで聴いている。ある日、ジャズを聴きながら、ふと、「原音追求」という言葉を思い出した。これはCDが存在しなかった一昔前、いわゆるLPレコード時代の(私に言わせれば)死語?である。

 かつて、オーディオの世界には「原音追求」という言葉があった。オーディオ機器のメーカーは大まじめにこの目標をかかげ、オーディオの頂点は「原音」であり、どこまでそれに近づけるかということにオーディオの価値があるかのように考えていた。(いまでもそのように考えているとしたら、ごめんなさい!)

 私は音楽を聴くのはほとんど車の中である。車の中は自分空間でしかないから、安全な運転さえ出来ていれば、以外と音楽を楽しめる時間でもある。
 だが、車の中でのオーディオは、「原音追求」とはかなりかけ離れた場所でもある。たとえば、普通車セダンでしかない私の車にまさか実際の演奏現場ほどの音量はありえないだろうし、「原音」とされる音質がなければ本当に満足がいかないのかと言えば、そんなことはまったくない。重要なのは、車の中という限定された空間でも、音楽を楽しめるかどうかということでしかない。

 ところで、私が時々催眠の中で使用するテクニックのひとつとして、毛布の固まりを人に見立ててしっかりと抱いてもらうというものがある。これは年齢退行などで、対面した家族などをしっかりと抱きしめたり、あるいは抱きしめられている感覚を味わってもらうために行うものである。
 ある女性セラピストはクライアントを本当に抱っこして慰めるという話を本に書いておられたりするが、男性の私が男性を抱きしめるのはごめん被りたいし、男性である私が女性にそんなことなど出来ないのは言うまでもない。だから、膝掛けに使ってもらっている毛布を丸く束ねて、クライアントにそれを抱いてもらうのである。
 これは座布団でも良いし、あるいはぬいぐるみでも良いだろう。でも、目を開けるとパンダでしたでは興醒めするかもしれないので、手近な毛布を使うのだ。いわば抱き枕の要領である。

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2008-03-13

前世イメージ療法の利点 part3

かなり昔、こんな詩を書いたことがありました。

              UFO

               堀  剛
      
アンカレッジ到着三分前
もう氷河や自動車すら見える高度だ

雪の大地に
確かな光体を見たのだけれど
「見た」という「事実」について
「フラッシュのように光を放ち移動した」と
語ってしまえば終わりだ

かかわる形容詞がない
動詞も
副詞だってないのだとしたら
あらゆる事実は方向を失う
僕らに

「見た」僕はありえても
見られたものが存在するなどと
とても言えない気がして
僕の行為は確かに存在したなどと
言い切るだけで終わっていく
一九八八年一月十五日
大阪発AF273

あるいは
世界とは方向のない「事実」だった
などと
僕は言いたくはないのだけれど

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 昔の詩を引っ張り出したのは、他でもなく前世療法の利点について考えていたからです。

 私は確かにこの詩に書いたような物体を見たことがありますが、これを写真に納めていたわけでもありませんでした。ただ見たとしか言えませんし、それを人に信用してもらうにも手だてがありませんでした。

 そう言えば、10年ほど前にも葉巻型UFOと言うのでしょうか、それが煙を吐きながら上空に停止しているのを香川県の国道11号線から真っ昼間に見たことがありました。午後4時頃でしたが、会議に遅れまいと私は大学へ向かっていました。当時はカメラ付き携帯というような便利なものがありませんでしたから、その場で写真を撮ることも出来ませんでした。でも、私以外にもそれを見ていた人はかなりいただろうと思うほど、公然?とそれは宙に停止しているという感じでした。

 自分の見たものを見たと証明するには結構骨が折れるようです。ところで、霊能者が霊能力を駆使して見たものを、見たと人にいうのにも多分苦労がともなうのだろうと思います。いや、本当は苦労がともなわなければおかしいと思います。なぜなら、それを他人に証明することは結構難しいでしょうし、結局、それを信じてもらえるかどうかということでしかないからです。

 それでからこそ、私には少し不思議に思えるのですが、ではどうして霊能者とか透視をする人は、自分の見えるもの、見たものを証明したり、他人にも見せる努力をしないのかということです。これがない限り、私のUFO目撃のようなものです。何を言っても信用されなくとも文句のつけようもないでしょう。信じるか、信じないかではなく、その認識を共有する方法への努力が問われていると思うのです。

 もっとも、私のUFO目撃などはあえて証明しなければ、私が困るわけでもありませんし、誰かが困るわけでもありません。(いや、ひょっとすれば宇宙人が困るかもしれませんが・・・)

 この程度の話にとどまるならば、自分だけが見ていればそれはそれで良いかと思います。でも、そのような能力を持つ人で、その能力ゆえに孤独に生きている人も私は見てきました。人に誤解されないように、密かに自分の能力の特異性に向き合っていながらも、誰にも言えないでいたという人もおられます。

 しかし、それとは違って、そのような能力をして何かを提言でもしようという方がもしいるならば、(マスコミにはそういう方もおられますが、)どうして、そのような方はご自分が見たものを見たと第三者に示す努力をされないのかが私には最大の疑問です。

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2008-03-12

前世イメージ療法の利点 PART2

  ところで、私はかつては(?)、キリスト教の哲学的神学という分野を専門としていたが、そのテーマとして「認識の共有の問題」にこだわって来た。たとえば、誰かが神様の声が聞こえると言った場合に、それが本当に神の声なのかをいったいどのように確認することができるのか、また、それを他者へ伝達し共有することは可能かということが私の問いであった。だから、セラピーとしての前世療法においても、認識の共有がいかにして可能であるかを考えたくなるのである。

 その意味では、所謂「透視術」というものは、あまりにも伝達や認識の共有という作業からはかけ離れているように思う。たとえば、「霊能者」がひたすら誰かの過去世なるものを透視しても、それを見ることをクライアントとの間に共有する努力がなされていないのではないかという疑問が残る。

 霊能者がそこで見たり感じ取ったものをクライアントに伝える時に、実証的なものとして伝える努力はおろか、場合によっては高飛車な警告だけがなされたり、クライアントがそれを信じるということによってしか次へ進めないような話であるとすれば、私としては一歩引いてしまいたくなる。

 認識の共有が直接的に成り立たないのは仕方がないとしても、クライアント自らが気づくべきであるという心理療法の原則は、透視や霊視のような作業においても求められていると思うのである。

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