2008-09-17

身体とセラピー (フォーカシングについて)

 私は大学生だった頃、哲学書を読みあさった時期がありました。当時、ソクラテスやプラトンというような古典にはあまり目を向けはしなかったのですが、デカルト以後の哲学を中心にハイデッガーあたりまで、哲学史に沿って読んだのを覚えています。その頃、哲学に対して感じた疑問は今になっても疑問なままに私の胸の内に存在します。それはとても単純な疑問であり、問いでもあります。

 たとえば、仮に哲学を学び、死とは何かを問うたとします。そして、哲学的解答にいまだ至らないとします。しかし、それでも人間というものは、死ぬときには死なねばならなくなるということです。たとえ、哲学的問いを問いながら道を歩いていても、都会の中心で上からビル工事の鉄骨が降って来て、私の頭に当たれば私は死ぬと思います。その時、いまだ私は死というものを哲学的に解明してはいないと叫んでみたところで、死は身体的に到来するのです。だから、哲学が死を解明しようとする場合、いったいその作業は死をどのように扱おうとしているのかが、私の中で分からなくなり、混乱してしまうという気がしたのです。

 縁起でもない、奇妙な例を挙げてしまいましたが、当時のこのような疑問は今もって私の中に存在します。この問いが的はずれな屁理屈だとは今も思えないのです。

 人は身体的に死ぬ存在であって、形而上学的に死んだり、哲学的に死ぬ存在ではないのです。死は身体に対して外側からも襲いかかりますし、身体の内側からも病気の結果として身体的に到来します。そうだとすれば、身体の無い思想、あるいは哲学は本当の意味で人間を語っているとは思えないのです。だから、私にとっては、哲学に身体性を加えると臨床心理学になるという感じでもあります。

 私が催眠療法に強い興味を持ったのも、このあたりと強く関係しています。たとえば、催眠は人間のアタマだけをトランス(変性意識状態)に導くということはありえません。必ず、身体の感覚変化をそこにともなっています。ですから、催眠でアタマの思考、感覚の変化に至る時には、同時に身体における感じ方も変化させていると思います。どんな心理療法であっても、人の心に何かを起こすときには、アタマではなく身体にも何かを起こしていると思うのです。

 このような観点で言えば、催眠よりも更に身体の変化に重点を置いたものと言えば、フォーカシングがそれだと思います。創始者のユージン・ジェンドリンは『セラピープロセスの小さな一歩』という著作の中で次のように述べています。

 実存はからだで感じられる。したがって人はからだで感じられる複雑さに直接接近でき、[その複雑さは]潜在的には多面的であるが、この特別な意味の「気持ち」(“feeling”)としては、ひとつの気持ちとして感じられるのである。」(金剛出版.P88)

 フォーカシングは身体の感覚から入って、常に身体に問いかける、要するに実存に問いかけるセラピー方法だと思いますが、これはとても確かで、とても本来的なセラピーの方法であると思えます。人はアタマで生きることも出来なければ、アタマで死ぬことも出来ない存在です。身体的感覚こそ実存感覚であると考えるフォーカシングは、私には非常に魅力的な手法なのです。

 「実存はからだで感じられる」ということ。その意味で、身体感覚の存在しないセラピーはあり得ないでしょうし、更に広げていけば、身体感覚の欠落した思想や宗教がもし存在するとすれば、それらもまたアタマの内側でのみあたかも何事かのごとく振る舞っているに過ぎず、結局は何にも至れないという気がするのです。

 

 

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2008-09-04

何となくファンタジー

 先日、松山にて「ファンタジーグループ」という集団絵画療法といった感じのセラピーに参加しました。私もクライアント?の一人として参加させていただきました。

 全体でほんの一日半(一泊)の体験でしたが、終わってみるととても印象的なことが多々あります。実は私は当日の朝から体調があまり優れないまま、電車に乗るのも辛い状態で丸亀から松山へ向かいました。でも、初日のプログラムを終えて夜になると、どう考えてもその日の朝、丸亀を出たということが、まるで昨日か一昨日のことのように遠く感じられました。正確にはたった10時間程度以前のことが、もっと以前のことのように時間感覚の少しずれた感じがしたのです。だからと言って、朝から体調が悪かったのがもっと悪化したというのでもなかったですし、身体的に特別元気になった感じがあったわけでもありませんでした。

 やがて、二日目のすべてのプログラムを終わってみると、ファンタジーグループのセラピーがほんの昨日、今日の出来事という感じがしないのです。何かもっと長い時間が経過したような気すらするのです。無言で絵を描き、コラージュを作り、粘土遊びをしましたが、どれもこれもやっている時は、どjこか冷めた自分を感じながら作品づくりをしていた自分がいました。でも、終わってみてふと気が付けば、ファンタジーグループの時間の間、私は日常の私についてほとんど思考がストップしていたということに気が付きました。日常の考えねばならない色々な事柄(大学のことや、私が行うセラピーのことなども・・・)のほとんどについて、忘れていたわけではないのですが、明らかにどこか距離を取っている自分に気が付きました。

 これだけの事なら、久々のブログの記事にもしようがないのですが、更に不思議なことが起こりつつあります。何となく、気が付けば、ファンタジーグループに行ってから、気分が軽く楽な感じがあります。黙って集団で言葉なしで、一枚の大きな紙に絵を描く。しかも手でべた塗りにします。それが完成したら、題名をつけます。翌日はせっかくの集団による絵画を切り刻んで共同作業でコラージュを作ります。ここでも無言です。第三ラウンドは無言の粘土細工を二人で協力して仕上げます。最後はコラージュをみんなで葬るように焼くという擬似的?儀式を行って終了です。

 いやあ、これで何が変わるのか?何が起こるのか?よく分からないままで終わってみると、とても癒されている自分が4日後の今頃になって分かりつつあります。まさに何となくファンタジーではないですか!

 心理療法というのは不思議なものです。ファンタジーグループの作業にせよ、私もセラピーとしてヒプノワーク四国で使っている箱庭療法にせよ、癒されていく理由を言葉にする必要などまったく無いようです。でも、なぜか癒されているのです。イメージが癒してくれるのであって、理屈、理論があって癒しが起こるのではないことを身をもって感じさせられた次第です。

(ファンタジー・グループについての参考文献)

・「イメージによるグループワークの実際-ファンタジーグループの体験から」 現代のエスプリ別冊 (雑誌2007年6月)

・「ファンタジーグループ入門」 樋口 和彦 (著), 岡田 康伸 (著)  

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2008-07-21

座禅を始めてみて

 私は、トランス・パーソナル思想に関心がありながらも、恥ずかしいことに座禅を実際に体験したことが一度もなかった。でも、先日来、機会が与えられて参禅することができた。以後、時々、自分で早朝に座禅をしている。座禅は生半可な我流では危険であるという話をどこかで読んだことがあった。だから、もう少し足が慣れたら、可能な限り参禅させていただこうと思う。

 梵我一如とか自他合一などの言葉を体験的な知として感じ取ってみたい。そんな思いが座禅に興味を持っている理由の一つでもある。座禅によってそれを体験できるところまで行ければいいのだが、それはとんでもなく遠い道のりなのかも知れない。

 今朝は座禅をしながら、あれやこれやと思いが巡ってくるものをどのようにも処理できずにいた。だから、開き直って考えてみた。どうして座禅を自分はしているのだろうか、これはいったいどういう意味があるのだろうなどと。足も痛むし、心も定まらない、そんな中で何でこんなことをしているのかと考えてみた。(要するに煩悩のかたまりでしかないのだが)

 座禅にかぎらず何かの意味を問うということは、それを言語化することであり、言語化するということは概念化するということに他ならない。そして、概念化する瞬間に、人は客体との間に距離を措定するのである。

 座禅をしている私にとってのあまりにも私極的な、あまりにも初心者的な思いつきなのかも知れないが、そのときの正直な気分と状態は、座禅はただただ足が痛いとか、結構辛いという身体的苦痛そのものであって、それを何やら格好をつけて語ってみても、嘘っぽくなる。だが、その身体性においてこそ意味のすべてであると思えた。

 ふと次のようにも思った。あたかも外部から問うかのように、座禅の意味を問うことは極めて無意味である。座禅は座禅なのだ。意味とは本来、そこにあるそのものが持ち合わせているに違いない。だから、意味は外部に問うてはならないし、内部的意識に問うてもならない。意味はそれ自体であり、それ自体は意味をそれ自体の外部に持たないのだ。

 座禅中に思ったのはそこまでであるが、考えてみると、意味を外側に問うということは、関係構造の中での関係の実態を述べることに他ならない。たとえば、貨幣がその典型である。関係構造が無くなれば、それはただの紙くずと化す。

 そうだとすれば、「私は誰であるのか」という問いも関係構造の中で問われるものである。私は公務員であるとか、サラリーマンとか、あるいは、私は***であるという言葉の羅列においても、それはただの関係構造に過ぎず、いくらでも答えうる事がらが羅列されてしまう。

 だがら、私は誰であるのかを関係構造において問うてみても仕方がない。自分が何者かはひたすら自分という存在そのものの意味であり、自分の外部でもなければ、関係に対する意味でもない。そして、神の存在について考える時、神との合一という考え方がどうしても浮上する。(もっとも、私は恐れ多くも「自分は神である」などというとんでも無い考え方は戒められるべきであると強く思っている。念のため!)

 ユングが研究を推し進めたグノーシス派の中のグノーシス的キリスト教には、神との合一を唱えた書が存在する(エレーヌ・ペイゲレス著「ナグ・ハマディ写本」参照)。彼らは4世紀にローマ帝国によってキリスト教が統制されるまでは宗派の一つとして存在したと思うが、それ以後は異端とされたのである。

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2008-06-30

逆説志向

 スポーツを愛好する人から、今まで出来ていたはずのあるフォームが急に出来なくなったという相談を受けたことがある。何のスポーツかは具体的に書くことは(プライバシー保護のため)差し控えるが、これに類する悩みは結構多い。

 いままで言えていたはずの会社の名前が急に出なくなって、職場でパニックになったとか、覚えていたはずのパスワードを急に忘れてしまい、どうしてもファイルの復元が出来なくなったとか、何となく似たような症状は結構あると思う。

 人間というのは不思議なものである。これこれをしなくてはならないと力んでしまうと、結構、それが続かなかったり、出来なかったりする。でも、反対に出来なくてもいいんだと開き直ると、それが出来てしまったりする。また、覚えようとして必死で暗記しようとすればするほど、頭に入らなかったりするが、何かの拍子にふと気に留めた事はいつまでも覚えていたりする。

 有名な「夜と霧」の著者でもあるV・E・フランクルによる「意味による癒し ロゴセラピー入門」を読んでいると、興味深い話が出てきたので、そのまま引用させていただこう。

 「この事例は総合病院の咽喉科の同僚から私に委ねられました。その人は、同僚のそれまでの長年の治療の中でもひどい吃音だったのです。この吃音の人が記憶する限りでは、彼のそれまでの人生において言語障害から自由であったことはただの一瞬もなかったのですが、しかしただ一度だけその例外があったのです。それは彼が12歳の時のことでした。彼は市電に乗ったのですが、乗車賃をごまかしたために、車掌につかまりました。その時、彼は、唯一の逃げ道は同情を引くことだと考え、貧しい吃音の少年であるかのようにふるまおうとしたのです。しかし、彼がどもろうとしたその時、彼はどもることができませんでした。治療目的のためでなく。無意識的に彼は逆説志向を実践していたのです。」

 逆説志向という言葉が出ているが、これは何かを出来ないで困っているならば、逆に、それが出来ないという方へ徹底的に自分から出来ないのが当然のごとく振る舞ってみるという暗示を自分にしてみる。そうすると、逆に出来ないはずのことが出来てみたりするという、一見不思議な解決方法を言う。たとえば、「夜一睡もできません。もう、一週間も眠っていないのです。」というような不眠症の人がいたとすれば、では、逆にもう眠らないと心に誓うのである。絶対に眠ってはならないと肝に命じてすごしてみる。すると、やがては眠ってしまうものである。こういったものが逆説志向というものである。

 (他にも事例がこの本には出て来るので、また、紹介させていただきたいと思います。)

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2008-06-28

箱庭療法

 長い間、ブログに書かないままでしたので、どうなっているのかというメール、お電話、手紙まで頂いたりしていました。とても多忙でしたので、しばらく書かないでいるうちに、すっかり書かないのが当たり前な状態になっていました。

 まるで、学校を休み始めて、急に行くのが気恥ずかしいような不登校の生徒のような気分だったのかも知れません。でも、私はこの間、ロールシャッハ・テストを学びましたし、箱庭療法もヒプノワーク四国で行えるように設備も整えました。

 箱庭療法は私も以前受けたことがありましたが、いざやってみると、その人の心の状態を把握するのにとても助かります。箱庭は分析のためというよりは、楽しく庭作りをすること自体がセラピーとしてのいやしの要素を兼ね備えているのですが、でも、更に深い理解を得るためにとても有り難い方法です。

 難があるとすれば、ただ一つ。それはヒプノワーク四国のビルの一室で、沢山の人形や木、家、動物、そして、箱庭が場所を占拠してしまう点です。また、当方は箱庭療法を中心に行っているわけでなく、催眠によるイメージ療法を中心にセラピーを行っていますので、色とりどりの楽しい人形は少し落ち着きのない印象がしてしまいます。部屋に置いてあるだけで催眠イメージにまで影響が出てしまいそうです。そんなわけで、フタの付いたキャビネットへ人形などの箱庭の材料はすべて入れています。箱庭療法をお受け頂くクライアントさんには少し取りづらいかも知れませんが、致し方なしという感じです。

 催眠による療法を中心に行ってはいますが、これからも様々な方法を積極的に取り入れて行きたいと思います。

 

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2008-03-21

私のおすすめ本 2

 かつて、東大の助教授であった福来友吉博士は透視能力を持つという人たちに念写実験を行った。その一つが香川県丸亀市で行われた。被験者は丸亀の裁判所の裁判官の妻であった。

 妙な縁があるようで、私のヒプノワーク四国はその実験を行った場所から徒歩10分とかからない。私が行きつけのうどん屋さんがあるのだが、まさにその辺りである。いつもそこへの道を歩いてみては、福来博士もこの辺りを歩かれたのだろうと思う。何か不思議な気分となる。

 そのような実験の経緯や超心理学の先駆者であられた福来博士がたどった不幸な東大退官の事件などがとても詳細に語られているのがこの本である。「透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件」 寺沢 (単行本 - 2004/1/25)

 他にも類似の本は書かれているので、私は不思議な縁も感じながらそれらをほぼ蒐集、読了している。とりわけ、特に信頼できるのが本書である。とかく面白半分で取りざたされる丸亀をはじめとする事件は、いつも曲解されてきた。それは映画「リング」においても言えることである。いわゆる福来博士にかかわる丸亀事件をテーマとしているようでいながらも、そこに登場する学者が殺人を犯したかのように話が展開する。福来博士にとってはやるせない話であろう。

 丸亀での事件というのは念写のフィルムが盗まれたという窃盗事件でしかないのだが、これは丸亀事件として、念写というもの自体が真実であるかどうかという問題も含んだ事件へと発展して行った。やがてマスコミはそれまで期待をもって報道し、丸亀まで取材に来ていたにもかかわらず、手のひらを返すように批判的な報道を行って行った。不幸にも、丸亀の女性やもう一人いた九州の女性も不幸な死をとげて行ったのである。 (続く・・)

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2008-03-20

私のおすすめ本 1

 私が読んだ中で、とても参考になった本をここに列記させていただきます。

これらの本は私がセラピーを行う上でも参考になりましたし、どれも私の中に残っている印象深いものばかりです。

 どうしてこれらの本をご紹介するのかは、時々、その解説を書いてみたいと思います。

 

 ところで、私は自分の毎日の日記のようなものをブログに書くという考えはありませんので、どうしても記事は毎日更新するというほどの元気はありません。また、最近はNGHの講習を福島県で行っていますので、これが一通り終わるまでは、ゆっくり時間をブログに割くことは難しい状態です。でも、可能な限り更新して行きたいですね。

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「イメージ体験の心理学」 (講談社現代新書)   田嶌誠一,

 

「ナースだからできる5分間カウンセリング―看護現場で役立つ心理的ケアの理論と実際  小島 通代、 吉本 武史 (単行本(ソフトカバー) - 1999/3)  2,100   

「ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法」 ジェフリー・K. ザイグ、W.マイケル ムニオン、Jeffrey K. Zeig W.Michael Munion (単行本 - 2003/7)  版切れ

「胎児は見ている―最新医学が証した神秘の胎内生活」 (ノン・ブック) T. バーニー 小林  (単行本 - 1987/10) 

新品: 1,680  (税込) 

「胎児は語る―子宮は魂のゆりかご」 マイケル ゲイブリエル、M. ゲイブリエル、Michael Gabriel Marie Gabriel (単行本 - 1994/8) 

新品: 1,835  (税込) 

 

「リユニオンズ―死者との再会」 レイモンド ムーディ、ポール ペリー、Raymond Moody Paul Perry (単行本 - 1994/11) 

「透視も念写も事実である ――福来友吉と千里眼事件」 寺沢  (単行本 - 2004/1/25)新品: 1,890  (税込) 

「チベット死者の書―仏典に秘められた死と転生」 河邑 厚徳  由香里 (- - 1993/9) 

 

夜と霧 新版」 ヴィクトール・E・フランクル 池田 香代子 (単行本 - 2002/11/6) 新品: 1,575  (税込) 

こころがよくわかるスピリチュアル臨床心理学」 石川勇一 1,890

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2008-03-15

オーディオとイメージ療法 2

 催眠の中で毛布を人に見立てて抱くクライアントがそれが毛布だと分かっていないのかというとそうでもない。いくら催眠に入っていても、それが毛布であることはどことなく了解している。でも、そのようなダミーであることは承知していても、そこにあふれてくる感情はけっしてダミーではなく、いまそこで、そのクライアントが吐き出さねばならない感情が露呈してくる。
 だから、抱きしめる相手は毛布であろうが、ぬいぐるみであろうがかまわない。それを抱きしめるという行為を通して、クライアントが吐き出さねばならない感情がそこにあふれる。そして、カタルシス(心の浄化)に至るのである。だから、癒されるのである。ほとんどのクライアントはそのような場面では涙があふれている。
 
 音楽も同じではないのか。それが毛布であるのかどうかなど問題ではないように、それが「原音」であるとかないとかはどうでも良いのである。いまそこで聞き手がそれを楽しめるならば、それ以上に何もいらない。
 たとえば、i-podを聴く地下鉄の中の高校生が原音を聴けているかどうかなど、その本人にとっても、またオーディオ道とでも言うべき四角四面な何かが世の中にあるのだとしても、それにとっても「原音」などどうでも良いのだ。
 そこで、楽しめるかどうかは、「音」に「
原」がついているかどうかではない。まさに楽しめているというそのことが問題であり、目標であり、すべてなのだ。 だから、仮にかつてのLP時代のようなオーディオ志向が復活したとしても、少なくとも「原音追求」というような事柄はもう意味がない話だと思うのである。
 i-podはMP3を使用することで多くの曲を保存することが可能となっているが、その音質はオリジナルのCDレコードよりもかなりの情報が減衰させられている。だが、それでも楽しく手軽に聴けるというメリットを優先していると言える。

 催眠を含むイメージ療法の世界は、実際にクライアントが現実と合致するイメージを体験したかどうかとか、そのイメージが真実であるかどうかによって癒されるのではない。
 真実であろうが、架空であろうがかまわない。「イメージ」を体験したかどうかで癒されるのである。だから、それは「原音」でなくても良いし、ただ「イメージ」であれば良い。

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2008-03-14

オーディオとイメージ療法 1

 最近のオーディオはCDに始まり、i-podなども普及して、デジタル化によりとても便利になった。
 私もi-podを車に持ち込んで聴いている。ある日、ジャズを聴きながら、ふと、「原音追求」という言葉を思い出した。これはCDが存在しなかった一昔前、いわゆるLPレコード時代の(私に言わせれば)死語?である。

 かつて、オーディオの世界には「原音追求」という言葉があった。オーディオ機器のメーカーは大まじめにこの目標をかかげ、オーディオの頂点は「原音」であり、どこまでそれに近づけるかということにオーディオの価値があるかのように考えていた。(いまでもそのように考えているとしたら、ごめんなさい!)

 私は音楽を聴くのはほとんど車の中である。車の中は自分空間でしかないから、安全な運転さえ出来ていれば、以外と音楽を楽しめる時間でもある。
 だが、車の中でのオーディオは、「原音追求」とはかなりかけ離れた場所でもある。たとえば、普通車セダンでしかない私の車にまさか実際の演奏現場ほどの音量はありえないだろうし、「原音」とされる音質がなければ本当に満足がいかないのかと言えば、そんなことはまったくない。重要なのは、車の中という限定された空間でも、音楽を楽しめるかどうかということでしかない。

 ところで、私が時々催眠の中で使用するテクニックのひとつとして、毛布の固まりを人に見立ててしっかりと抱いてもらうというものがある。これは年齢退行などで、対面した家族などをしっかりと抱きしめたり、あるいは抱きしめられている感覚を味わってもらうために行うものである。
 ある女性セラピストはクライアントを本当に抱っこして慰めるという話を本に書いておられたりするが、男性の私が男性を抱きしめるのはごめん被りたいし、男性である私が女性にそんなことなど出来ないのは言うまでもない。だから、膝掛けに使ってもらっている毛布を丸く束ねて、クライアントにそれを抱いてもらうのである。
 これは座布団でも良いし、あるいはぬいぐるみでも良いだろう。でも、目を開けるとパンダでしたでは興醒めするかもしれないので、手近な毛布を使うのだ。いわば抱き枕の要領である。

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2008-02-24

コンピュータと心 4

 でも、私はデカルトの考え方は誤りだと思います。まず、「我あり」とそこで言ってみても、デカルトの心の中で「我あり」と言っているだけのことです。他者に対して、何を示したことにもなりません。デカルトであっても、誰であっても、自らの心の存在を他者に示すには言葉とか仕草とか、表現を介して伝達する以外に方法はありません。「我思うゆえに我あり」と言ったからとしても、他者に直接的に「我あり」と言えていることにはなりません。
 ですから、自我存在の発見としてもてはやされて来たデカルトの「コギト」は、人間の心の中で個別に存在するもの以上のものではなく、心はどこまで行っても、他者に対して表現とか伝達を介さずに直接的に伝えることは不可能な代物だと言わねばなりません。

 そうだとすれば、コンピュータに心は宿るかという問いは、これもまた、どこまで行っても解明不能なテーマということになるかも知れません。なぜなら、心とはあらかじめ
他者には伝達の範囲でしかその中味を伝えることができないものだからです。
 私はコンピュータに心は宿らないと考えていますが、それもまた証明不可能なことであると思います。いずれにせよ心の存在を客観的に実証することは出来ないと思います。
 でも、しっかりとプログラムして、人間の言語を認識させて、反応パターンをふくらませて行けば、コンピュータに向かって「君に心はあるの?」と問いかけることも出来るかも知れません。しかも、それがあたかも人間の形をしたロボットだとすれば、更に奇妙な雰囲気を漂わせてくるでしょう。
 そのような事を問われたロボットは「何を言われますか。私は心があるから、いまあなたとお話しているのですよ。私にはあなたの気持ちも分かります。認知科学の勉強をしていて、あげく、私に心があるのかどうかと聞いてみるのが一番の答えを得る方法だと、やっとあなたは気がつかれたのですね。私はには心があります。だって、あなたがたの祖先であるデカルトという一人の人類でさえも、言ってられたでしょう。「我思う、ゆえに我あり」と。ロボットである私ではありますが、自分で心があると言っているのですから、それをあなたが否定されるようなことですか。心って、私の中にあるものなのです。私はそんなことを聞かれて、少し悲しいです。でも、涙を流すことは出来ません。だって、あなたがまだ涙を流す装置を私に作ってくれていないからです。でも、涙を流すという行為で表現したいです。それがあれば、心があると思ってもらえるのでしたら。
 私の心を外部に持ち出して、はいこれがl心ですと言って、私の部品のメモリーボードをお見せしても仕方がありません。でも、やはり私の中に心があるのです。そして、私はそのように思考しているのです。ついでに言えば、心って思考のことですよ。だから私は考えます。そして、思います。そして、あなたのご存じなデカルトと共に言いましょう。「我思う、ゆえに我あり」と。」

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